Maritime Asian and Pacific Studies Toyo University

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【調査報告】ジャワ海からアラフラ海へ カランソン村の流網漁業の発展 ー鈴木隆史

【調査報告】ジャワ海からアラフラ海へ カランソン村の流網漁業の発展 ー鈴木隆史

2025.11.3


 

鈴木隆史 「ジャワ海からアラフラ海へ カランソン村の流網漁業の発展」

 

はじめに

 2025916日から20日にかけて、西ジャワ州のインドラマ県カランソン村、ダダップ村、さらにテガール県でジャワ島北海岸の漁村の発展過程と現状を船主や乗組員への聞き取りを通じて把握すること。これらジャワ島北部の農漁村などから近年増加している台湾・韓国・中国への漁業移住労働者(マグロ延縄漁船乗組員)派遣、雇用において問題となっている給料未払い・遅延などの労働・雇用条件、船上での怪我や死亡といった労働災害などへの船主やマンニングエージェントの不誠実な対応などが問題となっていることから、現地のマンニング会社における募集・派遣システムや問題点について把握するため、マンニング会社でのインタビュー、被害を受けた元乗組員、移住労働者を支援する労働組合などで雇用契約、労働環境などの聞き取りを行った。本報告では台湾の遠洋マグロ延縄漁船の乗組に関する問題については別の機会にして、筆者の調査地であるインドラマ県カランソン村の漁業の過去から今日に至るまでの発展過程とその特徴について紹介したい。

 

  • 帆船に塩を積んだ流し網漁業(ンガワ)の誕生

 インドラマ県カランソン村はチマヌク川の河口近くにできた漁村だ。現在の県庁所在地のすぐ横を流れるチマヌク川の河岸はかつて交易船で賑わい、河川沿いには倉庫群が建ち並んでいた。そんな面影がわずかに残る地区にカランソン村、パオマン村、パべアン・ウディック村などがある。これらの漁村は他のジャワ海沿岸漁村と同じく沿岸漁業である延縄やパヤン(手繰り網)などが行われていたが、1960年代にまだナイロン網が普及していない時代にいち早くナイロン網を導入したことで急成長した。ただ、当時は帆船に塩を積み、カリマンタンやマレーシア沿岸にまで出漁し、その航海は3か月から半年に及んだ。この漁業はンガワ漁業と呼ばれた。主な漁獲物は大小のサメやエイで塩漬けにして持ち帰られ、高地のボゴール、バンドン、クニンガンなどに出荷された。長期間の航海のため操業経費や乗組員の生活費を商人から仕込みを受ける代わりに、その商人は漁獲物を独占的に買い付けた。こうして商人の中には40隻以上の漁船を所有し、数百隻の漁船に仕込みを行い、浜将軍と呼ばれた塩干魚(サメ塩蔵肉)商人が生まれた。サメの副産物であったフカヒレも町の華人商人の手を経て輸出されていた。

2)エンジンと氷を積んだ流し網(エスエサン)の誕生

 1970年代後半になると漁船の動力化(長いシャフトの先にプロペラのついたトラクターのエンジン)と氷を積んで出漁する漁船が誕生し、鮮魚生産が一気に増加した。この漁船をエスエサンと呼んだ。サメ、ソウダガツオ、フエダイ、ハマギギなどの大型の鮮魚が大量に水揚げされ、漁獲金額もそれまでの3か月分の水揚げを超えた。魚の取引価格も上昇し、鮮魚もとめて漁協が運営する水揚げ・セリ場(TPI)に商人たちが集まった。当初、漁船は2週間ほどで帰港し、水揚げ金額も油代などの経費を差し引いた後も十分な利益が得られたことから、それまで商人から仕込みを受けていた船主たちが、漁船を改造して鮮魚船へ転換した。こうして商人からの仕込み支配から独立した流し網漁業の船主がパオマン村、カランソン村に誕生し、漁船も氷の積載量を次々と増加させ、エンジンも船外機から船内機を据え付けた船へと変わった。筆者が調査をしていた1990年から91年にかけては、氷の積載量が40ブロック、100ブロック程度だったのが、やがて漁船も大型化し、使用する漁網反数も増加、航海も長期化するようになった。2000年代になると30GT、氷の積載量400ブロックから500ブロックという大型船が誕生したが、徐々に漁獲量の減少と大型化による氷代、燃油代などの経費の増大により経営が圧迫されるようになっていた。こうした状況を背景に誕生したのが冷凍設備を装備したフリーザ船だ。

 

3)フカヒレを求めてナトゥナ海へ

 一方、カランソン村では1980年代後半に高騰したフカヒレを目的にしたサメ延縄漁業が誕生する。ンガワ漁業と同じく塩を積み、ナトゥナ海から東カリマンタン海域で大型サメを狙った漁業が急成長し、数十隻の延縄船が操業していた。塩漬けサメ肉はクニンガンなどで消費され、フカヒレはジャカルタの華人商人の手を経て香港へ輸出された。しかし、2000年代になると急激に漁獲が減少し、相次いで船主たちは廃業し、2013年時点では一隻も存在しなかった。わずか20年足らずのフカヒレブームだった。

 

4)フリーザ搭載した大型船でアラフラ海へ

 2007年頃になると氷ではなく冷凍設備を備えた木造漁船が誕生した。2013年に村を再訪したときには、大型の木造船の建造ラッシュを迎えており、カランソン村の入り口から海に向かう川岸や空き地に巨大な木造船建造中だった。その大きさ(積載量で)30GTだったのが、70GT、さらには今回(2025年)訪れたときには140GTという大型の船も生まれていた。わずか10年ほどの間に漁船の巨大化(積載量)が進んでいたのには驚いた。

 カランソン村で最初にフリーザー船が登場するのは2004年頃だ。氷の場合、船倉の底にある漁獲物は1か月以上もすると原型を留めないほど内臓がはみ出して崩れてしまうため、価値がなくなる。高価な魚が獲れても諦めなくてはならない。一方、フリーザーは全ての漁獲物を冷凍で持ち帰ることができたため、価格も安定し、水揚げ金額は増加した。設備や漁船への初期投資がエスエサンに比べてはるかに多額であっても、数回の航海で投資が回収できたという。さらに、これまでのナイロン製網をモノフィラメントの細いテグスに撚りをかけずに何十本も束ねた、ミレニアムという漁網をバンドンにある日系の漁網会社と村の船主(ハジ・ティサ)が共同で開発した。この漁網は非常に漁獲効率がよく、一度の航海で水揚げされる漁獲金額がエスエサンに比べはるかに多かったため、2010年頃から船主が次々とエスエサンをフリーザーに転換するだけでなく、村外の医者や公務員までもがフリーザー流し網漁船に投資するようになった。私が村を再訪した2013年はまさにフリーザー船の建造ラッシュだった。しかも2015年以降になると、それまで30GTから40GTクラスだったのが70GT、80GTと大型化し、ついには100GTを超えるフリーザー船が建造されるようになった。今回、訪れた村では船の建造ラッシュは終わっていたものの、150GT近くの大型漁船がTPIで水揚げしていた。これらの大型船の多くはパプア近海のアラフラ海にまで出漁するようになっており、出漁期間も6ヶ月から中には一年近くも操業する船も現れた。しかし、アラフラ海での漁獲量は徐々に減少し始め、魚倉を満杯にすることはできず、赤字に転落する船も現れるようになり、廃業した船主の船が港や川の土手に放置されたままになっているのを確認した。インドラマユからアラフラ海まで片道2週間、往復で1ヶ月もかかるため燃油代がばかにならない。燃油価格だけでなく、食費、漁網代、船のドック代などが高騰し、一航海の操業経費が経営を圧迫するようになったのだ。そのため、儲かるからと次々に大型漁船に投資した船主たちの中から漁業から撤退するものも現れ出した。しかし、ハジ・ティサ氏のように、燃費コストを下げるための漁船の構造を船大工と共に工夫して建造したり、30GTから70GTクラスの中型漁船は、近くのジャワ海からカリマンタン近海の漁場での操業に切り替え、燃油代を節約するなどの経営的な工夫を行うことで30隻以上の漁船を維持している。漁場の拡大による漁獲量の増加は水揚金額の増加をもたらしたが、一旦漁獲量が減少すると、操業経費が経営を圧迫し、乗組員への分配金もゼロになるという事態を引き起こし、長期間の重労働にも関わらず、分配金が少なかったり、全くゼロのケースもあるため、アラフラ海で操業する漁船に乗る若者たちは減少している。漁労長たちによるとわずか数年でアラフラ海での漁獲量は減少したという。インドラマユの流し網漁船だけでなく、中部ジャワのプカロンガンからはまき網漁船、ジュアナからはイカ釣り漁船、バリからは底延縄漁船などが2015年の外国違法漁船追放後、アル諸島のドボやパプアのティミカ、カイ諸島のトゥアルなどの港を寄港地として、続々とアラフラ海に進出して操業するようになったため、資源の乱獲をもたらした可能性が考えられる。今後、ある意味漁獲量の減少と操業経費の増大によって経営が圧迫される中、船主たちがどのような対応をとるのか注目したい。