海域アジア・オセアニア研究
Maritime Asian and Pacific Studies
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調査レポート「ジャワ北海岸の洪水と歴史をめぐる雑感」の公開

調査レポート「ジャワ北海岸の洪水と歴史をめぐる雑感」の公開

2024.3.26

研究活動


本レポートは、2024年3月14日か20日にかけて、インドネシア共和国ジャワ北海岸にて実施された現地調査の成果を一部抜粋したものです。

 

ジャワ北海岸の洪水と歴史をめぐる雑感

 

文筆:津田浩司(東京大学)

 

水没した北海岸通り

 2024年の断食月入り直後から1週間、筆者らはジャワ島中部の北海岸を、トゥガル(Tegal)、プカロンガン(Pekalongan)、スマラン(Semarang)、ルンバン(Rembang)と巡った。周遊調査の起点となったスマラン空港に降り立った3月14日、空港周辺の道路は冠水していた。この日、スマラン市内でより浸水被害が大きかったのは、北部の旧市街から東へ、北海岸大通り(Jalan Raya Pantai Utara、略称Jalan Pantura)上を隣県ドゥマック(Demak)へと抜けるカリガウェ(Kaligawe)地区であった。バスターミナルにほど近い同地区の最大水位は1mにも達し、北海岸大通りはそこから東へ7kmほどが全面通行不能となっていた。

 

【写真1】カリガウェから東に約4km地点、パサール・グヌック(Pasar Genuk)付近の冠水した道路。スマラン市からカリガウェ地区を経ずに東へと抜けるこの迂回路は、大洪水から2日経って辛うじて通行可能となっていた(2024年3月16日、筆者撮影)。

 

 この北海岸大通りは、通称ダーンデルス通り(Jalan Daendels)、あるいは郵便大通り(De Grote Postweg/Jalan Raya Pos)と呼ばれる幹線道路であり、現在は国道1号線となっている。ジャワ島西端から続くこの道路は、首都ジャカルタを通って北海岸沿いを東にスマランに至ると、その先はドゥマック、クドゥス(Kudus)、パティ(Pati)といった中部ジャワ州北部各県の県都を抜け、さらにはパティ県下のジュワナ(Juwana)、ルンバン(Rembang)県の県都ルンバン、そして同県下ラセム(Lasem)の町を経て、最終的には東ジャワの港湾都市スラバヤのそのさらに先へと続いている。通称名に冠せられているダーンデルスとは、19世紀初頭に蘭領東インド総督に任じられたヘルマン・ヴィレム・ダーンデルス(Herman Willem Daendels, 位1808~11年)のことを指し、この道路が、ナポレオン戦争時にイギリス軍からの攻撃に備えて彼の時代に急遽整備された軍用道路であったことに因んでいる。

 

【写真2】ラセムのバティック(ジャワ更紗)の特徴的なモチーフのひとつとされる「バトゥ・プチャ(Batu Pecah)」。
直訳すれば「砕石」を意味する。このモチーフは、ダーンデルス通りを建設する際に労働力として徴用された人々の苦難の記憶を留めた伝統的なものだ、と語られることがある。ただし実際には、20世紀の第4四半期にラセムのとある工房が始めた新しいモチーフであり、北海岸大通りの建設と結びつけた物語は後からついてきたようだ(2005年9月6日、筆者撮影)。

 

 

 

 

 

 さて、スマランから東の一帯は3月17日には再び大雨に見舞われた。この時には、上述のカリガウェ地区が引き続き水没していたほか、ドゥマック-クドゥス間の北海岸大通り沿いの村が2m以上も浸水、さらにはドゥマックの南東40kmに位置するプルウォダディ(Purwodadi)の街中心部も一部冠水した。このため、翌18日にルンバンからスマランまで北海岸大通りを一直線に110km西進予定だった筆者らは、ブロラ(Blora)、プルウォダディ(18日時点で水は引いていた)、サラティガ(Salatiga)を経てスマランへと至る、全行程240km余りの大迂回を強いられた。

 

幻の「ムリア海峡」

 北海岸大通り上でもスマランとルンバンの手前までを結ぶ辺り一帯は、洪水多発地帯として知られ、過去にも雨期になると数日間の通行止めを余儀なくされる事態が繰り返されてきた。2000年代に入り、道路を嵩上げし路肩を拡張する(スマラン以東の北海岸大通りは、基本的には片側一車線の区間が続く)などの対策工事が進められてきたが、それでも2024年3月の洪水は数年ぶりに影響が広範囲かつ長期間に及ぶものとなった(同地一帯は2月にも大洪水に見舞われていた)。そしてその前後から、SNS上では興味深い画像が拡散した。写真3・写真4はその例である。

 

【写真3】 1万年前の現ムリア半島周辺の海岸線をシミュレーションしたとされる図。インスタグラム「@stuffmap.garage」からの転載と思われる。この画像やこれに類したものが、洪水直後からSNS上で文字通り「氾濫」した。

 

【写真4】 16世紀の「ムリア海峡」をシミュレーションしたものとされる図。「Amatora Sciencisto」(https://knightgenerous93.wordpress.com/2015/11/28/selat-muria/)より転載。この画像に地名などを書き入れた図も、SNS上には溢れた。

 

 写真3は1万年前のジャワ島中部北岸の海岸線をシミュレーションしたもの、写真4は同じ場所の16世紀の様子を再現したものだとされる。クドゥスとパティの街の北側には、標高1600mを超すムリア(Muria)山がそびえている。北海岸大通りは今にちその南麓の沖積平野上を東西に走っている。現在この山を含む一帯はムリア半島と呼ばれ、ジャワ島本島とは完全に地続きだ(1970年代後半から、この半島北端部に原子力発電所を建設する計画が取り沙汰されてきた)。しかし、古代においては両者の間には長い海峡が広がっていたことが、これらの画像には示されている。いずれのシミュレーション図についても、どれほどの厳密性を持って作成されたのかは明らかではない。が、「ムリア海峡(Selat Muria)」がかつて実在したことは、歴史的に確かなようである。

 「ムリア海峡」はその後、土砂の堆積によって次第に幅が狭まり、17世紀後半の早い時期にはジャワ島本島と陸続きになったと言われている。逆に言えばそれ以前、たとえば15世紀から16世紀にかけてジャワ最初のイスラーム王国として栄えたドゥマック王国は、この海峡出口に位置する文字通りの港市国家であったことが、これらの画像からは分かる。また、かつて交易港として栄えていたジュパラが、オランダ東インド会社進出に伴い交易拠点の座をスマランに取って代わられたことも、この時期に進んだ土砂堆積に伴う港湾機能の低下と無関係ではないことが見えてくる。

 それはさておき、SNS上でこれら画像が拡散された際には、ドゥマックやクドゥス、パティ、さらにはプルウォダディといった今では海岸線から大分離れた内陸に位置する街々が、毎年のように大小の洪水に晒されるのは、かつてこれらの地が海の底だったからなのだ、と諦念するようなコメントが散見された。中には、昨今の気候変動で今後大雨が続くと、いずれ幻の「ムリア海峡」が復活するのでは、などと半ば冗談めかしたコメントすら見られた。この地では決して珍しくない大洪水の理由を、「実は…(ternyata…)」という形で直感的に遠い過去の土地の成り立ちへと結びつけ想像することを可能にするこれらの画像は、少なからぬ人々に一定のリアリティを持って受け止められたようである。

 

ラセム周辺の華人の歴史とリアリティ

 写真3・写真4で掲げた画像は、実は筆者にとっても改めて腑に落ちるものであった。

 筆者は2002年以来、北海岸大通り沿いのルンバンの町の華人コミュニティを拠点に、文化人類学的調査を続けてきた。そのルンバンと東隣のラセム、そして西隣のジュワナの町の華人廟には、「陳黄弐先生(Tan-Oei Djie Sian Seng)」と呼ばれる神像が祀られている。陳姓と黄姓を持ち「義勇公(Gie Yong Kong)」とも尊称されるこの一対の英雄神は、1740年代に華人がジャワ宮廷と結んでオランダ東インド会社(VOC)に対し蜂起した叛乱、いわゆる「華人戦争(Perang Tionghoa/Geger Pecinan)」の主導者が、戦いに敗れ没した後に地元で神格化されたものだ、と現地では信じられている。

 

【写真5】 ラセム義勇公廟(Gie Yong Kong Bio)。この廟はジャワで唯一、陳黄弐先生を主神として祀っている(2024年3月17日、筆者撮影)。

 

 その華人戦争を扱った歴史研究[Remmelink 1994]などを繰ると、華人らは雨季にジュワナからドゥマックまでを筏で往来していたと思われる記述が見られる。実は筆者はこれまでこの地一帯で、今回ほど大規模な洪水に遭遇したことがなかった(大概、比較的ゆっくりと現地調査ができる夏季休暇は、ジャワでは乾季に当たるのだ)。上述のジュワナからドゥマックまでを今にち車で行くと、一面に広がる単調な平野を延々と2時間以上にわたって進むことになり、かつてここでは水上交通が可能だったと言われても、全く実感が伴っていなかった。が、今回の大増水、そして何よりも、それを機に拡散したSNS画像によって、17世紀半ばの華人らが蜂起の際に辿った経路が十分なリアリティを持って感じられたのである。

 

【写真6】 クドゥス-パティ間の北海岸大通り沿いからムリア山を望む。手前には単調な平野が広がる(2003年1月13日、筆者撮影)。今回の行程時には厚い雲に覆われ、山影を拝むことはできなかった。

 

 ちなみに、そのラセムの町は2010年代半ば頃から、旧華人居住区を中心に「Lasem, Tiongkok Kecil(ミニ中国、ラセム)」というキャッチフレーズで大々的な観光化が進んでいる。町を南北に蛇行する川沿いには、1838年に建立された華人廟「慈安宮(Tjoe An Kiong)」が鎮座しているが、その前庭には近年、「オランダ東インド会社に立ち向かう華人とジャワ人闘士の像(Monumen Perjuangan Laskar Tionghoa dan Jawa Melawan VOC)」と題された超写実的なモニュメントが設置された。言うまでもなく、陳黄弐先生の逸話を具現化したものである。

 実は、その陳黄弐先生として神格化されている陳姓・黄姓の人物が、いったい誰なのかをめぐっては、ルンバンとラセムでは微妙に異なるヴァージョンの歴史が語り伝えられている[津田 2011: 第4部]。そうした中で、新たに慈安宮に建てられたモニュメントは、2013年に「華人戦争」を題材にした書籍[Daradjati 2013]が出版されたのを受け、その記述内容を根拠にして具体的な像の形へと落とし込んだものらしい。細部はさておき、このモニュメントのメタな主張はというと、その土台部分に埋め込まれた銘板に記されている通り、華人がジャワ人と協力して植民者に対抗した(つまり華人もインドネシアのネーション・ビルディングに歴史的に参加した)ことを明確に示する点にあるのは、明らかである。

 こうして作られた巨大なモニュメントが、「すでにそこにある」こととなった意味は大きい。いまや、試みに「ラセム(Lasem)、華人闘士(Laskar Tionghoa)」などの語で画像検索してみると、モニュメントの前で楽し気に記念撮影した写真が大量に引っかかる。町の人々にとってはもとより、この地を訪れる観光客にとっても、このモニュメントは今後長年にわたり一定のリアリティとそれに付随する物語を、即物的に提供し続けてくれることだろう。

 

【写真7】 ラセムの華人廟「慈安宮」の前庭に建つ「オランダ東インド会社に立ち向かう華人とジャワ人闘士の像」。2015年11月にラセムの華人有志によってジャカルタのタマン・ミニに建てられた像のレプリカが、戦いの「ゆかりの地」であるラセムの廟にも建てられた(2024年3月17日、筆者撮影)。

 

 今年の断食月は4月9日頃に明ける。その1週間ほど前からは、北海岸大通りは都市部から地方へと向かう帰省者を載せた車やバイクで大渋滞となるだろう。東西長距離バス交通の結節点であるラセムの町にも、多くの人が訪れるだろう。例年であれば、その頃には雨季も明けているはずである。

 

参考文献

Darajati (2013) Geger Pacinan 1740-1743: Persekutuan Tionghoa-Jawa Melawan VOC. Jakarta: Kompas Media Nusantara.

津田浩司 (2011) 『「華人性」の民族誌―体制転換期インドネシアの地方都市のフィールドから』, 京都: 世界思想社.

Remmelink, Willem (1994) The Chinese War and the Collapse of the Javanese State, 1725-1743. Leiden: KITLV.

 

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