調査レポート「多島海の島いぶきじま」の公開

2025.2.28
研究活動
本レポートは、2025年2月19日から24日にかけて、四国地域にて実施された現地調査等の成果を一部抜粋したものです。
多島海の島いぶきじま
文筆:鈴木隆史(桃山学院大学兼任講師)
海民の島、伊吹島を歩く
伊吹島は燧灘の東、香川県観音寺市の西、沖合10キロに位置する周囲5.4キロの小さな島だ。海底火山の溶岩でできた島で、島には平地がほとんどなく、急峻な斜面に家々が建ち並び、曲がりくねった坂道の先に八幡神社の森がある。島の名産は讃岐うどんやラーメンの出汁としてなくてはならないいりこだ。
今回の調査旅行では伊吹島で海上タクシーを運行し、島の歴史、民俗などに詳しい郷土研究家の三好兼光さんに島を案内してもらいながら人々が古くから今日まで海と密接な関わりの中で生きてきたことを教えていただいた。また、伊吹島民俗資料館に展示された資料や漁具などからも伊吹島の人々はまさに海と共に生きてきた海民であることがよく分かる。それはまるでインドネシアの多島海に生きる海民たちのことを思い出させてくれた。以下、伊吹島の人々の海との関わりと漁業の変遷を中心にとについて、ただし、現在伊吹島の主要産業のいりこ生産については別の機会に紹介したい。
水船と三十石船への出稼ぎ
伊吹島は漁業で栄えた島であると同時に船の水夫を送り出す出稼ぎの島でもあった。三好兼光さんの父親秋光さん(大正14年生まれ)が書き残した「伊吹島 今昔」という文章には、西宮の水を灘の酒蔵へ運ぶ水船の話が出てくる。江戸末期からトラック運送が始まる大正時代中期頃まで船で酒の醸造用の水が運ばれ、この船の水夫として伊吹島のほとんどの若者たちが冬の間出稼ぎに行ったとされる。樽に水詰め、船に詰み、積み下ろす作業は過酷な労働だったが、よく働く伊吹島の若者たちは重宝がられたという。
また三十石船は江戸時代、淀川を伏見京橋から大坂天満橋八軒屋までの40キロを客28人と三十石の積荷を乗せて朝と夕方に二回上り下りした。伊吹島出身者の中にこの船の船頭や船主となる者がいた。こうした出稼ぎは不安定な漁業収入に依存していた島民にとって貴重な現金収入源でもあった。真浦のすぐそばにある明神社の前には二つの常夜燈があり、一つには「蛭金八(えびすきんぱち)」と彫られてあるが、水船に関する人たちが奉納したとされる。また、もう一つは1790年の建立で三十石船にゆかりのあるものだという。江戸時代から明治時代にかけて島の人は活発に外の世界と繋がり、人の移動とともに様々な情報や文化、漁撈・造船などの技術も伝わったのだと思われる。(三好兼光さんのブログ「伊吹島歴史散歩」)
鯛しばり網
伊吹島民俗資料館にある伊吹島の漁業略史には慶長年間(1596−1614)に三好正治が白旗網を始めるとあるが、これがどのような漁法だったのかは不明だ。また、俵物三品のひとつナマコ(いりこ)が江戸幕府から藩が請負っており、ナマコが採捕されていた。漁師たちが積極的に海に出て魚を獲るようになるのは鯛のしばり網が伝わってからだ。年表では弘化―慶永年間(1844―1855)に周防国(山口県)から伝わったとされるが、もともと慶長年間(1596−1615)に紀州で始まったとされる。それが幕末から明治時代初期にかけて瀬戸内海全域に伝播し行われるようになった。三好氏によると江戸時代にはすでに14、15統もの鯛しばり網があったという。
香川県の仁尾町の恵比寿神社には1907年(明治40)に奉納された絵馬が残されており、伊吹島の近く燧灘の魚島周辺での大漁を感謝して奉納したと言われる。これらの絵馬は網主だけでなく網子たちが大漁祈願のために奉納したものも多いという。
燧灘はとりわけ好漁場であり、5月初旬から下旬までの短期間に香川、広島、愛媛県の船団が燧灘海域に入漁し、船上で寝泊まりしながら操業した。先の絵馬にはその漁の様子が描かれている。さらにこの漁法は幕末期から明治期初期に安芸から備後でカズラ縄を2艘の船で曳き、網に誘導する方法へと発展し普及していく。(真鍋篤行「瀬戸内海のタイシバリ網漁と聞き取り調査の緊急性」Ocean News Letter 第408号、2027.08.05発行、笹川平和財団)
鯛は産卵のため太平洋から瀬戸内海に入ってくる。鯛しばり網は2月中旬に紀伊水道で4月には豊後水道でも行われた。瀬戸内海に入った鯛は4月頃には鮮やかな赤みを帯び、「桜鯛」と呼ばれた。鯛しばり網は4月から5月頃にかけて総勢50名から70名と10隻内外の船で行う大規模な漁法であり、非常に多くの網子たちを必要とした。漁期は八十八夜を中心に前後50日間であり、生船と呼ばれる活漁船で大阪の「ざこば」へと運ばれている。この生船の船主にも伊吹島の出身者がいたことが記録として残されている。(「石碑と伊吹島の関係」あかし市民図書館編集『明石型生船調査報告書vol.2 』2022年)
この鯛しばり網漁業には非常に多くの網子が必要だった。最盛期に島は多くの人で活気を呈していたと想像できる。島の人口も1950年頃にも約4300人もいたとされ、映画館(2軒)、歌舞伎座、パチンコ屋(3軒)、銭湯、飲み屋、遊郭まであった。三好氏が子供の頃には小学生も500人もいたという。(三好氏の話と元伊吹小学校内の展示物より)
打瀬網漁業と分村の形成
鯛しばり網以外に伊吹島では打瀬網が1865年(慶応元年)広島県の能地から伝播し、1887年(明治20)には打瀬組合が結成されるほどに発展した。最盛期には70隻もの船がいたとされる。島には同時期に鯛しばり網と打瀬網が共存していたのかについては明らかではない。
主な漁獲物はエビジャコであったが、そのほかにもアナゴ、カレイ、ハモ、クルマエビ、チヌ、スズキなどが獲れた。冬には貝こぎという漁法が行われた。季節によって瀬戸内海を移動し、旧暦の8月秋祭りが過ぎると、「下行き(しもいき)」と呼ばれる周防灘や豊前方面に出漁し、上関や室津、宇部の新川、長州各地の港を拠点として操業していたという。こうした漁場を求めて移動し、拠点を作る中で伊吹島から次男、三男などが移住して分村が大分県の杵築や大阪湾の泉佐野にも形成されていった。((三好兼光さんのブログ「伊吹島歴史散歩」と聞き取りより)
朝鮮海出漁
伊吹島の漁民たちは瀬戸内海だけでなく、香川県のさぬき市小田、津田などの漁民と共に朝鮮半島へと出漁するようになる。記録によると明治末期には鯛しばり網漁が不振に陥り、漁獲不振を挽回するために鯖しばり網漁業による朝鮮海出漁を行うようになったとされる。やがて、漁船の動力かが進み、鯖機船巾着網漁業が開始され、片手回し機船巾着網が考案され普及する。両手回しよりも網船が一艘少なく乗組員の数も約半数の40名程度で行った。漁船は15トン、30馬力だったのが数年で19トン、80馬力へと大型化している。経営も一時的ではあるが伊吹島の網元と明石の鮮魚運搬業者とが共同経営を行ったりしているのも興味深い。やがてサバ巾着網はイワシ巾着網へと対象魚種を変え、新たな漁場を開拓し、各地に根拠地を作って行った。また北朝鮮海域ではマイワシが大量に漁獲されるようになったため、魚肥工場を建設してマイワシから魚油を搾り、魚油はドイツへと輸出、搾りかすも肥料として輸出され、イワシやサバなどの鮮魚は運搬船で日本へと運ばれた。魚群を探すのに飛行機まで飛ばしている。この朝鮮海出漁も戦争が激化し、1942(昭和17)年で現地に設備を残したまま撤退している。(伊吹島民俗資料館展示資料 朝鮮海出漁史および伊吹島の漁業略史から)
以上のように簡単に伊吹島の漁業の変遷について資料をもとに整理してみた。現在はいりこの島として知られるが、人々は常に新たな漁法を導入し、新たな漁場を開拓してきた。また、漁業の網元や網子としてだけでなく活漁船船主や水船、三十石船などの水夫としても各地で活躍した。さらに、瀬戸内海から朝鮮半島まで魚を求めて出漁し、定着し、漁場を開拓している。これは、まさにインドネシアで私たちが出会った海民たちと同じ行動パターンだ。多島海でもある瀬戸内海を海民の視点で捉え直してみる必要があると感じた。
伊吹島民俗資料館(2025年2月21日 撮影:中野真備)
写真等の無断転載はご遠慮ください