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調査レポート「マカッサルの中元普渡節行事観察記―龍顕宮仙媽廟」の公開

調査レポート「マカッサルの中元普渡節行事観察記―龍顕宮仙媽廟」の公開

2023.10.12

研究活動


本レポートは、2023年8月30日から9月6日にかけて、インドネシア共和国南スラウェシ州にて実施された現地調査の成果を一部抜粋したものです。

 

マカッサルの中元普渡節行事観察記―龍顕宮仙媽廟

 

文筆:津田浩司(東京大学)

 

 ジャカルタから南スラウェシ州都マカッサル市に降り立った2023年8月30日は、旧暦では七月十五日に当たる。この日の前後には、各地の中国廟は中元普渡節の行事で賑わう。この日の午後に訪れた市内スラウェシ通り(Jl. Sulawesi)の「龍顕宮仙媽廟(Vihara Istana Naga Sakti/Klenteng Xian Ma、以下「仙媽廟」)」でも、夕方にかけ多くの人々が集まっていた。コロナ禍の間は大々的な行事が中止を余儀なくされたため、こうして集まって中元節を祝えるのも2019年以来とのことだ。

 

仙媽廟のパンフレットに掲げられている廟の全景。
2008年に現在の5階建ての建物に改築された。
(龍顕宮仙媽廟発行のパンフレット表紙より)

 

仙媽廟最上階からスラウェシ通りを北へ望む
奥の高層建築は、元々1897年に「広東聯義会館」として創設されたもので、地階は関帝廟となっている
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

 中国の伝統的信仰では、旧暦七月十五日には地獄の扉が開き、鬼(しかるべく祀られていない彷徨える死霊)がこの世にやって来るとされる。そこで廟などでは供物を用意し、これを不特定多数の鬼に施して(施餓鬼)丁重に元の世界へと送り返す。これが中元普渡節の儀礼の主要な趣旨であるが、中国ではこの信仰が仏教の「盂蘭盆経」に由来する目連救母の説話(注1)と結びつき、特定の祖先への回向という要素も強調される。

 さて、マカッサルの仙媽廟における中元普渡節儀礼のプロセスの概略は、概ね以下の通りであった。夕刻、廟の役員・関係者が全員白いシャツを着て集まったところで、まず地元の道士が祭文を読み上げる。ひと通り礼拝が済むと、お供え物や菓子類、それにインスタント麺などが詰められた小袋が路上に大量に並べられ、合図とともにそれらを皆で奪い合う(注2)。その後、死者の名が記された紙製の供物が道路上に並べられ、道士による祭文の読み上げ、次いで大乗仏教系の読経グループによる読経が行われる。そして、参加者一同で線香を掲げ礼拝をした後、道士を先頭に皆で紙製の供物の周りを数周回る(注3)。その後、供物に火が着けられる。軒上に昇り始めた満月が煌々と輝くなか、読経グループが「南無阿弥陀仏」とゆったり繰り返して謳い、死者の名は煙となって空高く消えていく。火が燃え尽きるまで皆で見守り、一連の儀礼は終わりである。

 

儀礼を主導する道士と、鉦を打つ廟公
後ろには廟の役員・関係者らが線香を持って並ぶ
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

道士が読み上げる祭文
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

大乗仏教系の読経グループ
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

死者の名が記された紙製供物
下には紙銭が敷き詰められている
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

 仙媽廟関係者によると、かつて祖先の名を記した紙製供物は、張りぼての船に乗せて海岸まで担がれて行き、浜で船ごと燃やしていたそうである。ただ、インドネシア国内で華人を取り巻く政治・社会的環境が厳しさを増すとともに、廟の敷地のそばで燃やすようになったそうだ(注4)。中元節に張りぼての神像を燃やす行事は、中国や台湾、それに東南アジアの華人たちの間で広く見られる風習である。かつてマカッサルで行われていた死者の霊を船とともに送り出すというのも(仏教的要素と習合した)その一形態であり、長崎や佐賀・熊本でお盆に行われる精霊流しとも著しい共通性が認められよう。

 ところで、今回中元普渡節の行事を拝見した仙媽廟は、マカッサル港沿いの大通りの1本内側を南北に貫くスラウェシ通りに点在する廟の1つである。このうち、扁額や碑文などから確認できる最古の廟は、天上聖母(媽祖)を祀る天后宮(1797年)であり、次いで古いのがこの仙媽廟(1864年)である[Salmon & Siu (eds.) 1997: 250-275]。主神として祀られている仙媽(三顕真仙)は、航海の女神として名高い媽祖に比べれば比較的マイナーな女神であり、廟の碑文によれば、南宋の時代に今日の福建省永春県あたりで暮らしていた馬某が神格化されたものである(注5)。長泰県を祖籍地とする湯氏は、この仙媽を代々篤く奉じてきたが、清の乾隆年間に同県坂里郷に仙媽を祀る龍顕宮を創建したという。その湯氏一族のなかから、清の嘉慶・道光年間にマカッサルへ移り住んだ者が神像を帯同し家で祀っていたが、ほどなく出身地や姓にかかわらず広く募金を呼びかけ、1868年に落成を見たのが龍顕宮仙媽廟である(注6)[cf. Wirawan 2013: 117-118]。この湯氏は、後に数代にわたりマカッサルの甲必丹(注7)を輩出する名家であり、その歴代の墓は市東郊の華人墓地で確認することができる(注8)。なお、この龍顕廟は湯氏の宗祠というわけではなく(同氏の宗祠は、同じスラウェシ通りに別途「崇本堂」の扁額を掲げて存在する[Salmon &Siu 1997: 296-299])、今回観察した中元普渡節の儀礼においても、湯姓に限らず街の様々な有力華人が参加していた。

 

龍顕宮仙媽廟内に掲げられている扁額
真ん中は1893年に甲必丹湯河清(1845~1910年)が奉納したもの
(2023年8月30日 撮影:津田浩司)

 

マカッサル市東港外の華人墓地に立つ、甲必丹湯重畀(1857~1918年)夫妻の墓
(2023年9月5日 撮影:津田浩司)

 

 華人社会の調査は、聞き取りや観察とともに、廟の扁額・対聯、あるいは墓碑銘として刻まれた豊富な文字資料も必須の参照データとなる。これらを組み合わせることで、スラウェシ島南部の華人社会の歴史と現在を立体的に把握するというのが、当面の目標である。

 

参考文献

伏木香織. 2016. 「シンガポールのハングリー・ゴースト・フェスティバルとスペクタクル化する儀礼―立ち現れる「華人」のイメージとその内実」, 津田浩司・櫻田涼子・伏木香織(編)『「華人」という描線―行為実践の場からの人類学的アプローチ』, 東京: 風響社, pp.225-273.

Salmon, Claudine & Anthony K. K. Siu (eds.) 1997. Chinese Epigraphic Materials in Indonesia, Volume 3: Bali, Kalimantan, Sulawesi, Moluccas. (under the direction of Wolfgang Franke). Singapore: South Seas Society.

津田浩司. 2010. 「今、ジャワの寺廟で何が起こっているか―ポスト・スハルト期インドネシアの国家、宗教、華人コミュニティ」, 『アジア・アフリカ言語文化研究』(79): 37-71.

Wirawan, Yerry. 2013. Sejarah Masyarakat Tionghoa Makassar: Dari Abad Ke-17 Hingga Ke-20. Jakarta: KPG.

 

(1) 釈迦の十大弟子のひとり目連尊者が、餓鬼道に堕ちた亡母を救うために、僧衆に食物を布施して母を供養したという話。

(2) この「奪い合う」ことに焦点を当て、旧暦七月十五日の儀礼全体は「sembahyang rebutan(=奪い合いの儀礼)」の名で通っている。ジャワでは、「奪い合いの儀礼」を指す「搶孤」の閩南語読み「cioko」も、中元節の別名として比較的に広く定着している。中元節はさらに「七月半」という別名でも呼ばれるが、興味深いことに、この語は官話読みの「qiyue-ban」で発音される場合が多い。マカッサルの仙媽廟で掲げられていた横断幕には、「中元超渡法会/Sembahyang Ulambana」と記されていたが、「七月半(qiyue-ban)」の呼称も一般に用いられているようであった。中元節の名称をめぐる混乱や儀礼のスペクタクル化をめぐっては、シンガポールにおける観察に基づく伏木香織の論文[伏木2016: 225-273]を見よ。

(3) 目連戯に起源を持ち、霊魂を救済し浄土へと導くいわゆる「過橋」儀礼が簡略化したものと思われる。

(4) 第二代スハルト大統領(1966~1998年)の時代には、中国的要素を公共の場で表出することが法令(大統領訓令 1967 年第 14 号)により厳しく制限されたことから、中元節を含め廟で大々的な行事を催すことは、マカッサルでもできなかったという。仙媽廟が今日のように活気を見せ出すのは、同法令が撤廃された2000年以降とのことである。

(5) インドネシア各地の中国語碑文の調査をしたClaudine Salmonらは、聖祖仙媽を臨水夫人(三奶娘娘のうちのひとり)と関連づけている[Salmon & Siu 1997: 397]。一方、マカッサルの華人社会の近現代史を包括的に著したYerry Wirawanは、この神明の特定が容易ではないと記している[Wirawan 2013: 117]。ちなみに、長泰県と強く結びついた神明としては、他に清元真人(大使公)が比較的よく知られている。ただし、インドネシアではジャカルタの大使廟、トゥガルの澤海宮など、ごく限られた廟で祀られているのが知られているのみである[津田 2010: 42]。

(6) 創建時は平屋建ての小ぢんまりとした廟であったが、2008年に5階建てに改築された際、上階に安置する太歳星君、阿弥陀三尊、関聖帝君や弥勒仏などの神像を中国から取り寄せたのだという。

(7) オランダ植民地下で華人社会の管轄を委ねられた者に与えられる名誉官職で、都市(集住地)の規模に応じて馬腰(Mayor)、甲必丹(Kapitan)、雷珍蘭(Letnan)などの称号が与えられた。マカッサルの歴代有力華人については、Yerry Wirawanがまとめた付属資料[Wirawan 2013: 263-266]を見よ。

(8) マカッサル市の主要な華人墓地は、当初は市中心部のカレボシ(Karebosi)広場の北側にあったが[Wirawan 2013: 81]、1950年前後に5km東の郊外(Batujangan)へと移転した[cf. Wirawan 2003: 219; Salmon & Siu (eds.) 1997: 300]。やがて、その区画が南スラウェシ州庁として再開発されることとなり、1980年代半ばに墓地はさらに5km弱東の現在地(Antang)へと移転を余儀なくされた。現在、墓地の正面入り口には「Yayasan Sosial Budi Luhur Makassar」の文字が掲げられている。漢字表記は「錫江恩徳慈善基金会」である。

 

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